石巻、南三陸でのボランティア報告2

〜石巻と南三陸の11の物語
石巻と南三陸16月24,25日、有志数名とともに再び石巻に行ってきました。夜通し車で北上し、地方都市である石巻の普通のまち中をしばらく走ると、突然日常が断ち切られて「あの光景、津波に破壊されたまち」が目の前に広がります。

それでも道が整備され、不自由なく車で通行できます。全壊した港に近い地区では、ぼこぼこに壊れた車が広場に積み上げられ、鉄筋や木材などガレキは集積場所に集められています。万里の長城のようなガレキ、大量に発生してまとわりつくハエ。その先に土台だけが建物の痕跡を語る、荒涼とした広い空間も出現しました。ガレキの撤去や片付けが進んだのです。市民と自衛隊、ボランティア、業者の懸命の作業がまちを片付け、風景を変え続けています。


被災地で出会った物語を書いておきます。人が前を向いて生きて行く姿は、たいへんそうだけど、心を打たれる強さがあります。


石巻と南三陸2津波の被害でお引っ越しするお宅の倉庫の片づけを手伝いました。このお宅の奥さまも津波の際に歩道橋に登って辛くも津波から逃れたのだそうです。

あの日「鎌歩道橋」には、7〜80人が逃げ上がり、津波の水が引かなかった2日間、歩道橋の上や屋根伝いに移動した事務所で人々は寒さに震えながら声を掛け合って過ごしたのだと聞きました。「生と死を分けたのは紙一重の偶然。おかげで生き残りました」。


石巻と南三陸3この地域では自宅の2階に逃げて助かった人も多いのだとか。そうして一階のみ被災したお宅の多くは、少しリフォームして2階に住み続けるのだそうです。「ウチは土台が傾いてしまったので、引っ越します。それでも一家みんなが無事でした。だからいつかこの場所で家を再建します」とお手伝い先のご主人はおっしゃいます。

お母さまは長年使った母屋の家財道具を名残惜しそうに眺めていました。「引っ越し先は狭いから全部は持っていけないの」。鎌倉から持参した手作りバックを渡すと、顔をほころばせて、まだ使えそうな料理道具を大切そうにその中に入れました。「これは持って行けそう。ありがとうね」。


石巻と南三陸4南三陸町を訪ねました。石巻から車で50分ぐらいの距離です。高台にある避難所の庭で復興市が開かれていました。月末の日曜日に開設される市では、水産業者のワカメ、サケ等の加工品や手作りの地元の菓子などを売る屋台、日本全国から支援のために出店した模擬店が軒を連ねて人が集まり、活況を呈しています。

「このタコやサケは、冷蔵庫にあったまま被災しました。震災の後、探し出して守ってきたものです。どうぞ食べてください」。…はい。サケ4切れと水ダコ買わせていただきました!


石巻と南三陸5しかし復興市を離れると南三陸の中心部は人気も音もない廃墟のまち。ガレキは手付かずのまま、ねじれた鉄筋や木材の間から子どものおもちゃや、卒業アルバムなど生活がしのばれる品が見え隠れしています。最後まで避難を呼びかけ続けた放送で高名になった市の防災庁舎(鉄筋だけ残っている)の前に簡易祭壇ができていました。

今回のボランティア有志は19歳、22歳の学生さんたちも含んでいます。祈りをささげた後でガレキを見ながら若い彼らがつぶやきました。「何かできることがあるんじゃないか、力になりたいと思ってここに来ました」。


石巻と南三陸6そしてその隣はガレキに囲まれた中で営業を続けるガソリンスタンド。「電気が復旧していないので、お客さんが来ると発電機を動かして給油します。震災後1週間で修理して、以来ずっとこうして営業を続けています。復興を支えたいですから」。


石巻と南三陸7石巻と南三陸8ボランティアセンターでは流れた写真を洗浄して復活させる作業が進んでいます。それは「思い出」を取りもどす支援。かたわらにメッセージが貼られていました。県外から来たボランティアのものです。「一つでも多くの思い出が皆さまの手に残りますように」。


石巻と南三陸9仮設住宅を訪ねました。外にいた高齢の女性に声をかけました。被害にあった自宅に戻って取ってきたというスズランの鉢植えをみせていただきました。「津波を受けて茶色に枯れてたのが、ここ数日の雨で緑を取りもどしてきたよ」。
石巻と南三陸10
ここから30分ほどのところで農業を営んでいたそうです。「こんな助けてもらうばかりのババが生きのびて、津波で大切な孫や息子をもっていかれてしまったよ」と涙声で話します。わたしは・・・言葉がすぐに出てきません。

「生きてくれてうれしいです。逝かれた方も、きっとそう思っているでしょう。スズランみたいに、畑もじきに緑が復活しそうですね」。やっとそう返しました。「うん、うん」。言い聞かせるように、慰めるようにうなずいていただきました。


石巻と南三陸11ご夫妻で仮設に移られた方もいました。「お茶でも飲んで行きなさいな、遠くから来たんでしょう」声をかけていただきました。今日は別のアパートに避難したお孫さんとお嫁さんが訪ねていらしたのだとか。

みんな集まったところでお孫さんが壁から額を取って見せてくれます。「今まで住んでいた家の写真。ほら、大きい家だよ。海が隣に見える」。海に隣接していたこのお宅では、地震の直後に波の異常を感じて家族全員が高台に逃げたのだとか。

2人のおさない兄弟が話してくれました。「おじいちゃんの畑からいろんなものがいっぱいながれちゃったんだ〜。道具もない、苗もない。がれきばかりだって。でもまた畑に行く〜」。畑にぜひ行ってね。君たちが行けば、きっと畑もまた緑になるから。仮設の中で子どもたちの元気はとても貴重です。


石巻と南三陸12別の避難所は児童室があり、近所の仮設に移った子どもたちも遊びに来ていました。ここでは様子を見守るボランティアの中にも被災して家族をなくした人もいるのです。

「彼女の時間はあの時から止まってしまったようです。ここでボランティアをして人と話をし、子どもたちの声を聞いている時だけ、生きているという気がするのだそうです」。

慰める言葉も出てきません。でも子どもたちも児童室でみなさんと遊ぶのを楽しみにしているようです。


石巻と南三陸13仮設の共有スペースで移動カフェを開いているグループもありました。入居者がポツリポツリと集まってきます。子どもが大人と一緒にはないちもんめをして、はしゃいでいます。

市内のいろいろな地域から入居者が集まる仮設。多くを失い、背景もさまざまで知らない人同士が住むのです。すぐにではなくてもいい、くつろいで言葉を交わせる場を作ってもらいたいのだとカフェの担当者は語ります。一年のつもりでプロジェクトを続けるのだそうです。新しくコミュニティーを作ろうと地域の人や外から来た人が声をかけあって取り組み始めているようでした。


IMG_9143震災はこの土地から多くのものを奪いました。人々が暮らしたまちは残酷で荒涼とした風景に変わり果てました。生死は紙一重。それでも生きのびて暮らす人がここにはいます。

3.11をこの地で過ごした人には物語があり、言葉がありました。わたしたちが復興のお手伝いができたのなら、とてもうれしい。でも、ここに来てやったことと言えば、声をかけていただいたこと。お茶をいただいたこと。そして歩み出したみなさんを見て、希望をわけていただいたこと。
…あれれ、立場が逆じゃない?!

東北はそういう「折り目正しく人を気づかう、なつかしい」土地で、まさに前を向いて歩きだしたのだと、いまさらのように気がつきました。そこで汗を流せたこと、みなさんの物語を聞かせていただいたことは、わたしたちの宝です。被災地のボランティアセンターで渡されるワッペンが、じつは誇りなのです。

tag-sあれから4カ月。たくさんの想いを抱えながら、被災した土地に根付いて生きている人たちの「日常」を取り戻す努力は、今も続いています。わたしたちは現地でお手伝いをしながら、遠い鎌倉で支援する方たちにも様子をお伝したいと思っています。
またうかがいます。

追伸:鎌倉や神奈川、東京などでさまざまなボランティアバスが出ています。
»http://www.jpn-civil.net/volunteer_bus/

投稿者:CanCan

コメント